竹斎は、たくさんの本を読んでいて知識(ちしき)があり、多くの人とつきあっていた視野(しや)の広い人でした。まえまえから、池をつくり耕作地(こうさくち)をふやそうとじゅんびをしていましたので、さっそくとりかかりました。 はじめに射和の千木谷(せんぼくだに)に池をつくろうとしましたが、水の量(りょう)が少ないため、阿波曽(あわそ)の木の実坂(このみざか)につくることにしました。 ところが、阿波曽の人たちから という心配(しんぱい)やねがいが出されました。 そこで、竹斎(ちくさい)は、次(つぎ)のようなやくそくをしました。
そこで、水の心配をしないで米づくりができるようにしようということで意見(いけん)がまとまり、工事(じ)がはじまりました。 竹斎は、はたらくことの大切さを考え、老人(ろうじん)・女の人・子どもにも、いっしょに仕事(しごと)をしようと声をかけました。工事がはじまると、多くの人びとが暑(あつ)い日も寒(さむ)い日も、雨の日も風の日もいっしょうけんめいはたらきました。 大雨でなんども仕事ができなくなったり、ていぼうがくずれたりしました。けんかがおきたり、工事が進(すす)まないようにじゃまをする心ない人もでました。苦(く)ろうがたえませんでした。その上、機械(きかい)がなかったころのことなので、それはそれは大へんな仕事でした。